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カフカ・フランツ(Franz Kafka)



1883年7月3日-1924年6月3日

   カフカ・フランツはプラハで生まれた世界的に有名なユダヤ人作家です。1883年7月3日に生まれ、1924年6月3日に結核により療養先のオーストリアで亡くなりました。遺体はプラハのユダヤ人墓地に埋葬されています。
   カフカは今や観光名所として名高い旧市街広場のすぐそばで生まれました。カフカの生家が残っていて、中は記念館になっています。観光の際は是非訪れてみてください。
   作家として有名なカフカですが、大学では法学を専攻し、法学博士号も取得しています。大学はカルロ・フェルディナンドヴァ大学(現カレル大学)でした。大学を卒業してから結核を患うまでは労災保険局で働いていました。つまり作家業は本業ではなく、小説を書いていたのは専ら仕事が終わってからでした。プラハ城の中にある黄金小路と呼ばれる所に部屋を借りて執筆しました。ここは現在ではかなり有名な観光名所にもなっています。
    菜食主義者で、煙草も吸わず、酒も飲まず、甘いものも口にしませんでした。人々を嫌い、避け、ユダヤ社会とも決別し、親友は二人しかいませんでした。作品中には彼の個人的な精神的葛藤がよく表されていますが、排除感や孤独感というのがその重要な動機でした。カフカは酷く精神的不安定で、自分が「人生の漂流者」であり、また自分を理解されていないとも感じ、その自分の心の痛みや内面を作品で表しました。
    カフカは実は遺言として自分の未出版の作品を全て破棄するよう頼みました。恋人のディアマントヴァー・ドラは自分の元にあった手書き原稿を全て破棄しましたが、親友のブロード・マックスはそれに従わずに出版しました。
    カフカには弟が二人、妹が三人いましたが、弟は共に幼年期に亡くなり、妹たちも全員ナチスの強制収容所で亡くなりました。カフカも結核で亡くなっていなければ妹たちと同じ運命を辿っていたかもしれません。
   よく勘違いされているのですが、カフカの作品はすべてドイツ語で書かれています。カフカが生まれた当時のプラハはハンガリー・オーストリア帝国の一つの王国の首都だったため、上中流階級の人たちはドイツ語を話し、チェコ語は下流階級の人(主にチェコ人)の間でしか話されていませんでした。そして、カフカは中流階級家庭に生まれたので母語はドイツ語だったからです。チェコ人作家の
ハシェック・ヤロスラフはカフカとほぼ同時期に活躍した作家で、ハシェクもプラハ生まれですがハシェクはチェコ語を話し、チェコ語で本も書きました。
   現在でこそ20世紀の重要な作家と位置づけられていますが、生前はほとんど無名でした。
   カフカにちなんだ文学賞が設けられていて2006年のフランツ・カフカ賞は日本人作家の村上春樹氏が受賞しました。受賞作品は「海辺のカフカ」で本作はカフカへのオマージュであるそうです。普段インタヴュー等は受けない村上氏がこのときだけはプラハを訪れ記者会見を行ないました。氏にとってカフカがどれだけ大きな存在であるかが伺えますね。彼の作品はチェコ語にも訳されていてチェコでも非常に人気があります。



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